ハワイでドライブ事始 No.1

旅行場所:オアフ島・ハワイ島・マウイ島

期間:1995.6.3~15

感想:
『本欄集載に当って一言』

 楽しかったなあ~、あの旅。前後合わせて19日間、二度に分けて出かけた海外ドライブ事始めを主目的とした私達夫婦の初ハワイ旅行。
 あれは安サラリーマンだった私が漸く宮仕えから解放され、格安追求を看板に遠くから近くへと巡り巡って丁度十回目の海外旅行やった。その時まだ私は60歳、妻は57歳じゃった。
 じゃ、その旅のビデオから拾い書きした「古い日記・ハワイ特集」。一寸カビくさいけど、以下順次分割掲載しておきましょう。海外での初自由旅行や初ドライブのを目指す人達には、基本的な面で私達の赤毛套(あかゲット)ぶりも、何か参考になるかもしれへんなぁ…。
 なおこの記録は、本楽天公開日記の2003年4月13日から5月10日まで、計22回に亘り再編掲載したものに、関連写真などを加え後日閲覧用に別枠として纏めるつもり…。但し、その挿絵については、始めのタイトル欄に《写真挿入済》の目印を併記するまでオアズケやけど悪しからず。


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  ハワイでドライブ事始 No.1… 前編『ハワイ6日間こんな旅』1993.5.18~23《♂60♀57》)
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★プロローグ「旅への軌跡」

 1987(S62)年3月9日。勤務先だったS銀行を満55歳の若さで定年退職した私は、このハワイ旅行が丁度十度目の海外旅行だった。
 うち最初の一度は、まだ退職前の1982年の夏の香港・広州・桂林の旅だった。部室店長の休暇は事前申請制だったため、旅行社のツアー催行日にあわせての参加には、随分苦労し嫌味も言われたものだ…。
 でもその旅は実に思い出深く、出会った内外の友にも恵まれ、距離の遠さも何のその、今も行き来や季節の挨拶を欠かさない関係が続いている。
 そうした人々との利害を越えた交際は、秘書として愛顧を受けた頭取の急逝以来、不遇の連続だった自分を大いに慰め、「人生到る処に青山あり」の思いを強くしてくれた。

 退職の春は、ちょうど娘二人も無事育て上がり、親としての責務を果たし終えたとも言えた時だった。
「これからは天下晴れて自由の身!! 今こそ自由な旅を目指す時。社用族のような大名旅行は出来ないが、自らの資金で堂々と、創意と満足感に満ちた個性的な旅を続けよう!!」。
 そう思った私は、まず宮仕えゆえに果たしえなかった長兄の墓参を、家内と沖縄に飛んで済ませた。

 その上で直ぐまた、長女夫婦が前年ハネムーンの地として選んだニュージーランドへ向かった。ついでにオーストラリアも回遊するフルムーン旅行だった。家内としては始めての、私としては二度目の海外旅行だった。天候にも恵まれ、それまで出不精だった家内も、セスナでマウント・クックの氷河に降り立った爽快感に、思わず快哉を叫び雪合戦をしてハシャギ廻った。

 前述のように、このハワイ行きで私は丁度十度目の渡航だが、家内も以来すっかり旅好きになった。南米・シルクロード・北鮮など、場所や都合で問題があり、自ら辞退した旅を除いては、何時も私と行を共にしている。
「歳とっては億劫になりがちな遠い国から回ろう」を合言葉にしている私達でもある。よく喧嘩しながらも毎年幾度か地球狭しと巡る楽しさを知った。

 もっとも昨年は、私達夫婦にとり唯一の心残りだった二女の結婚などがあり、海外には出なかった。その国内の旅にしても、これまでの経験と、何者にも縛られない自由な旅をと心掛けた甲斐があって、ちょっと常識的には信じられないほどの安さと気侭さで、東に西に、又北にと歩き回り、十二分に日本の美を堪能した。
 
 …そんな私達が久しぶりに出かけた海外旅行。それがこのハワイ旅行記である。
 慣れない海外でのドライブを安全にと思われる方。今も島全体が個人所有で、島人以外訪ね得ないニイハウ島を含む個性豊かなハワイ諸島を一日で巡る、日本人向けセスナツアーをと考える方。…そのほか我こそは旅の達人と思われる方々にも参考としていただけそうな情報を、私の独断と偏見を含めて書き連ねて見た。
 まずは以下お読みいただき、ご感想や、お問い合わせなどをいただければと思う。

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★ハワイ到着(第1日目・5/19/水・出発時は時雨、現地は晴)

 1993(H5)年5月18日の夕刻近く、JR東海ツアーズ社沼津支店の格安ツアー「ハワイ6日間の旅」(\119.000・パシフィック・ビーチホテル4泊・到着日ホノルル半日観光&昼食付)に参加するため自宅を出た私達夫婦は、時雨そぼ降る中を集合場所の三島駅北口の新幹線乗り場に向かった。添乗員はMGさん。36歳の同社社員。後で聞くと、次女の二美も新婚旅行の時にお世話になった方とか…。ともあれ終始誠実さを感じさせてくれた好人物だった。

 16時15分発の新幹線で東京へ。成田エキスプレスに乗り継いで、18時26分成田空港へ到着。両替などを済ませて出発を待つ。
 一時1$=110円を割る勢いで、内心シメシメと思っていたレートは、この数日若干反転したものの、再び円高に転じ、海外市場で高値を更新。1$=109円22銭をつけたと成田エキスプレス内の電光ニュースが伝えていた。もっとも、国内市場は既にクローズとあって、空港構内で両替した三和銀行の顧客売り現金レートは、1$=114円20銭と、未だ充分この数字を反映したものとはいえなかった。そこで出来るだけ現地でチェンジしようと、とりあえず到着後に直ぐ必要となる小額紙幣で100$だけ両替しておく。
 それから更に出国時、先ず旅行中の分として忘れずに免税煙草を買う。ケースが素晴らしいため愛煙家に珍重される、スイス製の最高級煙草「ダビドフ」が有れば別に1カートンを土産にとも思ったが、無いため「ダンヒル」だけとした。

 機内での「NO SOMOKING」のサインが消えると、数週間続けた自分自身の禁煙も解除。解放された気分での旅が始まる。客室乗務員のサービスも良く、親切にされたクルーの人達とすっかり打ち解けて記念のVTR写真を取らしてもらう。ただ、後刻この部分をうっかりミス消去。「記念のVTRをミステイクで消失してしまったため、送付の約束を果たせなくなりました。残念至極 !」とした詫び状を、帰国便の客室乗務員に託す結果となってしまった。

 こんな余談を残しながら、ともあれ我々を載せたノースウエスト航空のジャンボ機は、ほぼ予定どうり、時間を遡った同朝9時5分にホノルル空港に安着。お決まりコースの市内観光をさせて貰いながら、宿のチェックイン時刻を待つ。
 運転手はユーモラスで話好きな日系四世で、最近の米国の話題を面白おかしく紹介してくれるなど、サービス満点の好人物だった。
 駱駝ブランドで有名な煙草「キャメル」で財を成した富豪の娘さんが、遺産を巡り実の母と骨肉の争い演じて勝ったものの、既に老齢で「私の人生は巨万の富に囲まれながらも、決して幸せではなかった」と述懐したとか…。示唆と興味に富んだ話も、その一つとして記憶に残る。
 また、市街から少し離れた休火山、ダイヤモンドヘッドの火口原までも車を運んでくれ、予定表にはない観光をさせてくれたのも嬉しかった。

 ワイキキ海岸東端に近い大ホテル「パシフィックビーチ」の自室に落ち着いたのは、自宅出発時と同じ5月18日の午後3時だった。何だかタイムスリップした感じだが、早い話が時差分の19時間がこの間に経過したという訳だ。しかしその5月18日にしても、まだ日没までには間があり、エコノミークラスでの窮屈な飛行で疲れた体を癒す充分な時間が残っていた。
 割り当てられた自室は、37階の最上階に近い34階。完全に海側という訳ではないが、ベランダに出ると左手にワイキキビーチに寄せる波が白く見えた。耳を澄ますと潮騒までもが聞こえそうな近さだった。正面にはホテル街のノッポビル群が点々と奥深く林立していた。右手は山の手住宅街らしい。運河の向こう遥かには、タンタラスの丘が一望できた。アソコからはホノルル市街の夜景が素晴らしいと聞く。ともあれ、眺望も設備も広さも先ず満足だった。
 旅装を解き、家内と明日からの観光計画を協議しながら一服。のち、予約手配のため1階のJTBデスクまで降りて相談してみる。その結果、明日はオアフ島のドライブを試みる事とした。

 青く澄んだワイキキの空が微かに茜色に染まり始めた頃、レンタカーを借りようと買物がてら家内と外出。宿に近いABCストアーで冷やし蕎麦ほかを買ってのち、ハイアット・リージェンシーホテルへ行く。日本で買ってきた6000円のクーポン券を使い、バジェットの地下車庫からワインレッドのトヨタカローラを借り出す。交渉の結果、24時間券で明晩7時まで36時間借りられる事としてもらった。
 日本車といっても米国向けに作られたものである。私にとって始めて握るこの左ハンドル車は、勿論ワイパーも方向指示器も照明も、全て日本とは逆だから何とも使い難い。右側通行の道を、肩をコチコチにしながら何とか無事宿の駐車場に辿り着いた。

 駐車料5$をフロントに支払って部屋に戻る。扉を開けた瞬間、暗い部屋の向こうに、パッと燃え上がるような夕景色が、全面ガラスの窓一杯に広がっていた。一足先に部屋に戻った家内が気を利かせて全ての室内灯を消しておいてくれたため、その印象は一層鮮烈だった。林立するビルのシルエットが影絵のように一部を黒く埋めたその中に、満天の星のような窓の灯が点々と此方に向かって輝き、私達を歓迎してくれているようだった。その情熱的な絵のような光景に家内も私もアッと驚き、若者のように暫し快いムードに酔った。

 夕食はこの美観を眺めながらベランダで済ます。ビーフジャーキーを肴にバドワイザーを飲み干し、日本蕎麦を啜った。通りでは殆んど感じなかった高層の風が、緊張した汗ばんだ肌を乾かせ心地好い。
 …かくする裡にもハワイでの第一夜は刻々と更け、明日のドライブコースの構想を練りながら、午後11時ごろ夢路に就く。

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★初の海外ドライブ敢行の一日(第2日目・5/19/水・晴、時々シャワー)

 日本で試験的に買ってきたバジェット社の小型レンタカー24時間チケット(@6千円・有効期間1年)を早速利用。ワインレッドのカローラを駆って、先ず宿舎のワイキキからパールハーバー観光に、高速1号線経由で向かった。私にとって始めての海外ドライブだ。
 右側通行以上に、左ハンドルと補助レバー類の逆転操作に、順応への努力が必要だった。
 右折左折を前にウインカーレバーを操作したつもりなのに、ワイパーが動き出してしまったり、「シャワー」と愛称されるハワイ名物の時雨に見舞われる度に,ワイパーを出したつもりでウインカーを点滅させてしまうといった具合だ。

 また、センターラインも市街地では朝夕のラッシュ時など、ポールを並べて変更されていることが極めて多い。特に左折の時には油断禁物だった。ウッカリ交差点の中心に沿って内回りしたところ、順行車線であるべきセンターライン寄りの一車線が、逆行車線に変更されていて、慌てて対向車をかわすといった場面もあった。以後、左折する場合は、ナビゲーター役の家内の声が「大回リヨ! 大回リヨ!」と一層けたたましくなる。うるさ過ぎると喧嘩することも再々だったものの、無事帰り着いてみれば、その声の効果は絶大だったと思う。これでイザという時、代運転が出来るよう免許取得にでも励んでくれたなら、申し分ないのだがと密かに思う。

 さて高速1号線を降りる目標のアロハスタジアムが見えてきた。インターチェンジからもこの大きな建物を目標にハンドルを切って進んだ。ここでは水曜日と木曜日の朝にスワップミート(交換会)がある。…とはいうものの、殆んど本職で新品ばかりの露天だった。もっともムームーやアロハなどワイキキのほぼ半値だったから、娘や孫への土産の大半をここで求めた。代金として前回の北米横断旅行で残った100$TC(旅行者小切手)を出す。だがウッカリ宛名欄に署名してしまう。横線で消去し書き直すからといったがダメだと応じないため、仕方なく家内の幸が二美から頼まれた買物代の現金を借りて払う。韓国系の若い娘だったが、値引きもダメこれもダメの頑固さに、併せて買うつもりだった幸の分は別の店で求めてパールハーバーへ…。


 観覧予約時間までは2時間余もあったので、繋留展示されている第二次大戦中に活躍した潜水艦「ボーフィン号」内などを見学した。この船は大戦末期に進水し、太平洋海域で何と2?隻の日本船を撃沈した戦歴を持つ。その武勲を称えようとの記念艦だった。

 その撃沈された船の中には、昭和19年8月22日の夜、奄美群島のトカラ列島・悪石島沖で発見され轟沈させられたあの学童疎開船として那覇から鹿児島に向かっていた「対馬丸」も含まれていた。沖縄からの疎開学童と家族達758人が船と共に運命を共にした事件である。
 この悲劇を予て聞き知っていた私は、帰国後の遥か後日、NHKアーカイブスの番組として、この対馬丸の悲劇を紹介したドキュメンタリー『悪石の海』の収録ビデオを視聴。この戦争と言う人類の狂気がもたらした凄惨な悲劇を改めて詳しく知り、あの船こそ「対馬丸」を撃沈した当の「ボーフィン号」だったのだと思いを新たにさせられた。
 このため、何れ暇を見て後日このハワイ旅行のホームビデオの付録として挿入、出き得れば子々孫々に伝えたいものとビデオ資料として保存すると共に、この記事にも斯く加筆することにした。


 さて、この「ボーフィン号」を見学後、車で半時間程のパールシティー付近まで行く。銀行で両替をし、昼食用のスナック弁当などを買物するためだった。少し道に迷った末、リバティーという地元銀行や日本のクリーニング老舗「白洋舎」も店を出すシッピングセンターを見付ける事が出来た。銀行の職員は全て女性ばかりで、日本からの観光客が訪れるのは珍しいらしく、大勢寄ってきて話し掛けられた。その様子をビデオにも記録したのだが、この時うっかり前述の機内クルーとの記念撮影部分に重ね撮りしてミス消去、残念な事をした。
 ところで、リバティー銀行で両替したレートは一寸予想外だった。円高が進む今、現地なら1$=110円を割っているかもと期待したが、見事に裏切られて何と1$=120円90銭。観光客相手のホテルや街の両替屋の相場は124円程と昨日早速確認しておいたので、仕方なく5万円だけを両替した。買物も急ぎ済ませて今来た道を引き返す。

 昼ごろ戻って、先ず記念映画会場への入場を待つ。栗色で鍔広の在郷軍人帽を誇らしく被った日系二世のお年寄りに会う。先のTC受け取り拒否の話をしたところ、「そんな馬鹿な !」と言われて同情され、館内の売店で絵葉書を買わせ釣銭を貰ってくれる。親切が身に染みた。

 日米兵士に無益な血を流させた戦争の傷跡を、アリゾナ爆沈跡や潜水艦博物館で見る。戦中派の私も家内も感慨無量。記念館の中庭で持参したスナック類を広げ腹を満たす。池にコインを投げ入れ平和を祈り、反戦の誓いを新たに車に戻る。既に午後2時過ぎだった。

 火傷しそうなハンドルをヤンワリ握り締めて、高速1号線をホノルル市の西隣まで戻り、リケリケ・ハイウエーに入る。断続的なシャワーに見舞われながら北進、コウラウ山脈を越えた。峠からノースショアの海岸線が、澄みきった青空の下に美しく広がっていた。

 直進してモガプウ半島に至る。カイルアの町の入り口近くで、公園の一角にあったシッピングセンターで買物してのち、車を東に転じた。道が入り組んでいて進路を判じかね、尋ねた親切な若いライダーに導かれる。お蔭でコウラウ山脈の東端を回りこむ形でホノルルへ続く72号線へ、無事に戻ることが出来た。現地への道路網や交通ルールは出発までに相当勉強し、頭に入れてきたつもりだったが、やはりイザとなると面喰うことが多く、正直ホッとした。

 右側にはキングコングでも出てきそうな荒々しく切り立った山肌が続き、左側の海岸線には波静かなコバルトブルーの海が広がる。前方に緑に包まれポッカリと浮かぶマナナ島が美しく目を惹いた。カイルアから約50分でロコ(ホノルルッ子)達がシーパラダイスと親しむハナウマ湾入口に着いた。

 深さによって様々なブルーを美しく織り交ぜた入り江を眺めながら、南国の珍しい小鳥達が群れ遊ぶ急な崖道を下り、磯辺に立つ。元噴火口が海面下まで陥没して出来た天然のプールと言った感じだが、岸辺は美しい砂浜だ。外洋から隔絶された絶好の海水浴場だが既に夕刻。人影も疎らだった。一泳ぎだけでもしたかったが、水着を持参しなかった幸が「自分だけ、ずるーい !」と騒ぎ、残念ながら諦める。折からまた一頻りシャワー降り注ぐ中、湾口に大きく弧を描いて美しい虹が架かる。溜息が出そうな景色だった。急な坂道を引き返しながら、息を呑み呑み、慌ててビデオカメラのシャッターを切る。

 漸く駐車場に辿り着くと、虹を背景とした薄日射す石垣の上で、親鶏が子鶏を庇うような姿で身を縮め、雨を避けていた。何とも心和む情景だった。濡れながらドアを開けるのを待っていた家内の叫ぶような声を聞き、カメラアングルを工夫する間も無くパチリとやり、急いで車に戻り、ホノルルへの道を急ぐ。

 ダイヤモンドヘッドの裏側辺りから、対向車線に勤め帰りのラッシュが延々と続く。だがこちらはス~イスイ。アッと言う間にワイキキの高層ビル群が見えて来た。

 高速1号線から下り、返車を前に給油。満タンで約9ガロン、換算値で約15L(リットル)入る。6$丁度だった。1Lタッタの45円ほどだ。日本だと安い所でも今1L=115円はする。本当に安い ! ついでに、店内に並べられていた冷やしソーメンを夜食用に1パック買う。約3$を払って帰途を急ぐ。

 ワイキキ付近の道は、一方通行や工事中の通行止めで迂回路に悩まされた。半時間近く道に迷った末、7時過ぎに漸く、昨夜借り出したバジェット社の地下車庫が在るハイアットリージェンシー・ホテルにチェックイン。

 オーバータイムは取られなかったが、消費税として2$を支払う。約1日半でガソリン代と税金、そしてホテルでの駐車料5$を加えても、このドライブ費用の総額は7500円ほど。なおチケットの値段には、普通の事故なら殆んどカバー出来る程度の現地保険料も込みと言う事だった。

 この現地保険については出発時に、あと10$程出して深刻なトラブルに対処してはと勧められたが、念のために日本で契約してきた運転特約保険証を見せると、これなら十分と言われ追加しなかった。その日本での特約条件には様々な制約が付いている上に、一般旅行保険とセットでなければ付保できない。また料金も運転日だけに限定出来ず、全旅程6日間でなければと言う事で8千円程だった。

 万一の場合の利便さもあろうが、10$ほどで済む現地加入には大きな魅力を感じた。前記の時間延長サービスの要請も「ジャパニーズ・スピーカー・プリーズ」と言って、センターの日本語のできる社員を電話口に出してもらい可能になった事も考え、今後の旅では長短を良く研究し、もし安全と納得できれば積極的に利用を検討すべきだろう。

 日本でのレンタカーの利用も、昨夏山陰山陽路や信州路を巡るたびで何度か利用してみたが、その時のリッターカーの料金と比較してみても、ハワイはグンと割安だ。何よりもガソリンが半値以下という事や、ハイウェイが無料など、現地ドライブのメリットは極めて大きい。交通量も少々市街地を離れれば、グンと日本より少なく楽になる。十分な保険と下調べを欠かさず、ナビゲーター役を必ず同乗させるなどの基本的な注意を守る限り、事故率は日本よりむしろ低いのでは…。その上で万一事故が起こったとしても、時間的に自由な今の私達なら何とでも対処できよう。

 それに、短期間で食事観光抜きが殆んどという日本からのハワイツアーの実情を考えると、レンタカーは楽しさを倍化し経費を節約する一番良い方法だといえる。
「ハワイこそ海外ドライブを始める最良の場所だ」と旅のガイドブックにもあったが、私も同感だ。

 ともあれ無事に「海外ドライブ事始め」をクリアーした私は、長年の夢が叶ったと実に良い気分だった。この日の夕食も夜食程度で済まそうと話していたのに、同じこのハイアット・リージェンシーホテルの一角にある、渋谷の「ふるさと」ワイキキ店で最高の寿司定食を選ぶ事にした。

 浅蜊の赤だし味噌汁や季節の小鉢、大皿から食み出しそうなハワイアンクラブの見事さ。主餐は白木細工の太鼓橋に美しく盛り込まれた勿論握り寿司だ。退職以来、ファミリーレストランや回転寿司などのパブリックメニューに慣れた舌が、久しぶりに頬鼓を打つ素晴らしい味だった。デザートは香りも味も頃良いメロンだったが、出された頃には既に腹一杯。またまた体重が増えそうだ。

 コレだけ揃って中瓶1本をも含む込々価格が、一人前6000円程とは…。

 スワップミートでの買物に始まり、レンタカーから、この料理まで、まこと円高時代にハワイに来た喜びを実感させてもらえた一日だった。

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★ハワイ7島セスナツアー(第3日目・5/20/木・晴ときどきシャワー)

 4泊5日間という余りに慌しい旅程を最大限に活用して、出来るだけ多角的にハワイを観察し、かつ大いに楽しもうという大層欲張った考え。レンタカードライブに続くその第二手段は,このサークルレインボー航空のセスナツアーに参加しての島巡りだ。1日でハワイ島を除く全7島を空から観光。うち2島に着陸して空港付近の景勝地を訪れる昼食付き日本語ツアー。こんな便利なツアーがある事を知り、出発前から天候と相談のうえ参加しようと決めていた私だった。

 尤も1day セスナツアーとしては、先年、現地観光会社を通じて利用したペルーに於けるアエロ・コンドルの、リマからナスカ地上絵観光ツアーと較べると、提示された料金は少し割高に感じた。
 このため現地でヨリ安い代理店を選ぼうと思っていた。先ず到着後ドールパイナップル・モールでの昼食後に、同社へ直接電話して料金と明日のツアーの予約可否を問い合わせてみた。その結果は、料金300$で予約可能との事だった。しかし念のため、旅のガイドブック『地球の歩き方』では、280$で記念Tシャツのプレゼント付だったが…と話すと、代理店によってはそういう条件で売出している所も有る様子。だが観光バスの出発が迫り、今ここで予約手続きする間が無い事を話すと、今夜8時までに電話してくれれば良いとの返事だった。だが宿舎に入り、明日の天気を調べてから4時頃に再び電話してみたところ、明日はモウ満席になってしまったと断られ、ガックリ。

 それでは仕方がないと、とりあえず宿舎の中にある2旅行社の営業所を訪ね、代理店扱いの料金は同じか調べてみた。するとJTBは290$、近畿日本ツーリストは300$と、日本の旅行社同士でも差がある事が判った。この調子では旅行社同士の協定は無い様だし、現地の旅行社を探せば更に安い代理店もありそうだ。でも明後日の予約まで満員になってしまってはとの家内の意見に従いJTBに予約を申し込む事とした。ただ我々が参加しているJR東海ツアーズ社は、全てのオプショナルツアーを、現地JTBを経て手配を行っている様子。それなら添乗員のG君を通じて申し込んだほうが、彼の実績にもなろうし親身にもなってくれるだろう。そう考えて彼に手配を依頼した。

 すると、一度は明後日も満員になってしまったとの電話だったが、その後キャンセルが出たとかで、結局第3日目の旅程に組み込んで好天を祈る。ともあれ、このツアーの人気は相当なものと感じた。もっとも、翌日現地の街頭で貰った各種のPR誌を読むと、最低265$で二人ならコナコーヒー1ポンド付きという代理店もあり、一寸早まったかとも思う。

 しかし乗って見ての感じは、そうした悔いも忘れさせる程に、日本人向けに企画された実に価値ある企画だった。ソレもその筈、この会社の社長はハワイに来て操縦免許を得た日本女性で、セスナ1機から創業発展させたものという。
 そうした彼女の抜群の実行力と企画力の恩恵に浴し、ここにハワイ島を除く全7島を、空から1日で駆け巡る観光が実現した。

 離陸すると間も無く、左手にアロハタワーや私たちの宿舎も在るワイキキ海岸が迫る。カイウィ海峡を越えれば左にモロカイ、右にラナイ、その先にカホオラウェと、それぞれ個性豊かな島々が次々と姿を見せる中。視界を可能な限り広げようと、窓を特別に大きく改装したというセスナは、私達6人の乗客を乗せ早くもマウイ島への着陸態勢に入った。

 カフルイ空港では、緑滴るばかりの渓谷美と針の山の奇観で有名なイアオ渓谷へのバス観光が行われた。空港への帰路立ち寄ったホテルでの昼食も、調理者が日系女性達と言うだけに、サッパリした和洋食で美味しかった。

 マウイから反転しての空路はモロカイ、オアフと各島の北岸沿いに進む。その目まぐるしく変わる野性的な素晴らしさは、アッと息を呑む滝の群れや、奇岩・断崖数知れずで、コレラの島の真の美しさはむしろ陸からでは行けない所も多い、北岸沿いに有るのではと…と思われた。

 オアフを後にすると、きつくなった腹具合と広いカウアイ海峡越えで、皆眠くなる。面白かったのは、前列になった若い新婚さんの挙動だ。あの絶景も殆んど見ぬまま眠りこけ、新妻の肩にコクリコクリと深く倒れかかる若旦那。その度に顔をシカメて押し返す、いかにも迷惑気な新妻。家内と二人、成田離婚にならなければと密かに案じながら、こちらも何時か船を漕ぎ始めた。

 離陸して約1時間半。カウアイ島のリフェ空港に着陸する。直ちにバスと船を乗り継いで羊歯の洞窟観光に向かう。この島は昨年の大台風の被害で、2月までは観光客も入れなかったと言う。その凄まじい爪跡は、島のごく一部を覗くに過ぎない私達の目にも、今なお色濃く残っていて痛々しかった。船中では男女三人組が民族色豊かなショーを演じ、旅の疲れを癒してくれた。こうしてワイルア川を遡行すること約半時間で終点の桟橋に着く。
 羊歯の洞窟へは、珍しい草花が咲き乱れる密林の小道を5分程歩く。我々を高みにある洞窟に導いてから、先ほどの三人組が下でハワイアン・ウエディングソングを披露する。洞窟に反響する妙なる歌の調べ、優雅さを感じさせる麗しい島の乙女の踊り。大台風で名物の羊歯の葉は半分近く吹き飛ばされてしまったと言う。しかし反面、訪れる観光客は未だ殆んどないために雰囲気は上々。洞窟の入口上部に櫛の歯のように垂れ下がる、羊歯の葉の緑を美しく滲ませて伝い落ちる岩清水も、一部すだれ状に落ちて流れ下り、まさに舞台効果も満天。とにかくこの慌しい旅程の中、何処か神秘的なこの地を訪れ得た事だけでも満足だった。

 心洗われるような余韻を抱きしめるようにして洞窟を後にした私達は、再び船とバスに揺られ空港に戻り、オアフ島への帰路についた。

 カエナ岬に達すると、西海岸をワイアナエ山脈沿いに南下してパールハーバーへ向かう。真珠湾奇襲時と同じゼロフライト・コースだ.昨日訪れた白いアリゾナ記念館やフォード島が近づく。その手前の奥深い湾内にも、昨日は見えなかった沢山の艦艇が繋留されているのが見えた。その昔、ここ真珠湾に襲い掛かった海鷲たちの心を類推しながら飛び去る。戦時下は軍国少年だった自分が、敗戦で様変わりした世界情勢を背景に、今同じ空の道を辿る…。平和の尊さと同時に、相も変らぬ人間の愚かさが嘆かわしい。善悪を越えて戦争を憎む。

 間も無くホノルル空港が見え、降下態勢に入る。あの爆撃で壊滅的打撃を受けたヒッカム空軍基地を右に見ながら着陸。午後5時前、国際空港ビルと滑走路を挟み対面するサークルレインボー航空社に無事帰着した。

 宿舎への帰途、ハワイ第一の規模を誇るアラモアナ・ショッピングセンター前で同社の送迎バスを途中下車、広大な構内を見て回った。評判が高い「サイミン」なるベトナム料理を食べてみようと探した末、地下広場の屋台街で見付ける。薄目の五目ラーメンといったところ。正直なところ余り美味しいとも思えず、口直しに串焼肉を肴にベトナムビールを飲み干して上がりとする。ラーメン同様に、店によって味に大差が有るのかも知れない。

 宿舎へは路線バスを利用する事にした。バス停に向かう前、々構内の1時間ラボに立ち寄り、頼んでおいた現像処理だけしたフィルムを受け取る。「フォトビックスで映像化したものをビデオテープに収録、随時観賞できるようにしているのでプリントは不要だ」と予め断っておいたため、2本で5$と日本の半値近い現像代で助かる。但しサービスプリントも頼む際は、仕上がりサイズが日本の倍判近いためか、少し高めのようだった。

 バス料金は、一人たったの60セント。その上、トランスファー・チケットを運転手に請求すれば、数時間以内なら2回まで乗換自由となるため、60セントでオアフ島一周も可能とするガイドブックもあった程だ。消費税は4%程らしく僅かに高めだが、庶民の暮らしに直結するこうした交通機関や食料品などは、非課税とも聞いた。

 もしそうだとすると、生活必需品とは当然縁が少ない観光客は、その分だけ地元民より消費税の分担率が高く、財政的にも二重の関税制度を設けられたような感じもする。

 しかも各国でその税率に大きな開きが有る現在、貿易外収支という観点からすると、低率の国ほど制度上で割を食ってしまう事になりはすまいか。もっとも観光客だって馬鹿ではないから、余りに高率の国の観光は敬遠しようし、それを承知で訪問した人々にしても、買物だけは物価も税率もヨリ安い国でと心掛けようから、逆に本来の観光収入を、押し下げる結果を招いている場合もあるかもしれない。消費税収入をこうした観点か、国別に調査・分類・比較し、相手国別に対応する必要もあるのではなかろうか。
 …そんな事を考えながら、バスの乗客や運転手の親切に支えられ、無事7時過ぎに宿舎へ帰り着いた。

 なおこの夜は、もう一つ私を驚かせる光景に出遭った。それは昨夜レンタカーを返した時、窓に取り付けたまま忘れて来たコンパスが見つかったとの連絡を受け、8時半過ぎに私一人で外出した帰り道での話だ。この時間のカラカウア大通りの予想を越える猥雑さには、さすがの私も些かアングリ。何しろ我々オジン族でも赤面するような隠語や微妙なニュアンスの日本語が、碧眼の女たちの口からポンポン飛び交う不思議な街だった。

「わたし免税店ヨ。それに円高サービスで半額ネ」
は未だ良い方。
 中には、
「わたし尺八吹くね。いかなければ半額ね」
と明け透けなのもいた。

 今ハワイの日系人達は、間も無く1ドル百円になると円貨獲得に必死と聞いたが、この女達も円高に向かう今が稼ぎ時と捨て身の構えだ。日米開戦の頃、誰がコンナ光景が未来にあると想像し得ただろう。そんな思いを胸に宿舎へ戻る。

 家内に話すと、「エイズだって言えば!?」だって…。

《以下、NO.2に続く》
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